江戸時代、宝暦・明和のころ(1751~1771)見附小倉という織物が付近の需要に応じていたが、その生産量は微々たるものであった。文化元年(1804)村松藩主堀丹波守が小禄家臣の婦女子の内職に適当な仕事をと、里正金井貫左衛門に内命があって考え出されたのが綿糸の紡績であった。これが進んで製織が開始されたのが見附結城縞の起源であり文政9年(1826)のことである。明治9年節糸織の開始、同36年輸出羽二重が好調で県内屈指の羽二重産地となった。大正末期に人造絹糸が発明されるとこれを巧みに生かし、変わり撚糸を使用して人絹織物・人絹交織物などの品種のバラエティーに富んだ産地となった。第二次世界大戦中は指定生産一辺倒となり、ついには企業整備令が発動されて転廃業が続出、産地の規模は大幅に縮小された。昭和24年統制解除、絹紡服地、スフ糸を使用した黒紺サージは低価格で衣料不足時代の一般人用として最適であった。翌25年合繊糸の欠点であるシワ、チヂミを除去するため全国で初めて樹脂加工施設を組合協同事業として設置、昭和42年には国の施策である織布業構造改善事業に参画し、産地の近代化を進めるとともに翌45年には中小企業雇用管理近代化モデル集団として国の指定を受けて勤労者福祉等に取り組んできた。また、昭和58年には鉄工業協同組合との異業種技術提携により織装置開発に取り組んできた。近年は、天然繊維と合成繊維等の複合素材を用いた高度技術による高感性な商品開発に努めるなど、他産地との差別化により産地活性化に取り組んでいる。
(出典:見附市ホームページ)
https://www.city.mitsuke.niigata.jp/